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佐藤 達也(さとう たつや、1986年7月26日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(投手)。 == 経歴 == さいたま市立指扇中学校で、外野手として野球を始める〔野球を始めたのは「中学校にバスケ部がなかったから」だという(グランドスラム誌37号の記事より)。〕。埼玉県立大宮武蔵野高等学校に進学後に投手に転向した。3年時の夏は埼玉県予選2回戦で敗退。 高校卒業後は、北海道学生野球連盟に加盟する北海道東海大学(現在は東海大学に統合)に進学。3年時の秋にはエースとなり、10試合で6勝を挙げ、同校5年ぶりの優勝に貢献。最優秀投手賞とベストナインを獲得した。4年時は春に腰痛と股関節痛を発症し、春と秋合わせて4勝に留まった。リーグ通算18勝。プロ志望届を提出したが指名されず、本田技研工業に入社して狭山野球部に所属。 Hondaでは1年目の春から公式戦に出場し筑川利希也や武藤祐太らと共に投手陣を支え、3年目のは主戦投手として活躍し、第82回都市対抗野球大会出場に貢献している。同年10月27日のプロ野球ドラフト会議でオリックス・バファローズから3位指名を受け入団。当初は背番号25を付ける予定だったが、李大浩が25番を希望したため別の空き番だった15番を背負うことになった。 プロ一年目のキャンプは一軍に抜擢され、オープン戦に登板するも成績が振るわず、開幕一軍を逃す。4月25日にプロ初登板を果たしたが4試合の登板で防御率12.46と打ち込まれることが多く、5月7日に登録抹消。その後は二軍戦で徐々に結果を残して8月23日に再昇格、ビハインド場面での登板が主ながら結果を残した。9月14日の対楽天戦では、先発した井川慶のアクシデントを受け2回から緊急登板し、味方の失策絡みで敗戦投手になるも3者連続三振を奪うなど、4回1失点(自責点0)と好投した。結局、再昇格後10試合の登板で、15回2/3を防御率1.15と安定感のある投球を見せた。通年では14試合の登板で防御率3.43ながら、奪三振率9.85を記録した。 は開幕一軍入りを果たしたものの、4月24日に腰痛で登録抹消される。その後、復帰すると5月9日のホークス戦にはビハインドの場面で登板し、9回にチームが逆転サヨナラ勝ちしたことでプロ初勝利を記録した。7月には監督推薦で自身初のオールスターゲームに出場。当初は3,4月に登板した13回で12四死球を出すなど制球に不安定な部分もあったが、登板を重ねるごとに安定感を増し、徐々に信頼を勝ち取ることでセットアッパーとして起用されるようになり、8回佐藤、9回平野佳寿の継投が定着した。 最終的に67試合登板し、防御率1.73、WHIP1.12、奪三振率10.15を記録、リーグ最多の42ホールドポイントで最優秀中継ぎ賞のタイトルを獲得するなど前年から一気に飛躍した年となった。 は月間防御率で5度0点台を記録するなど前年よりもさらに安定感をましセットアッパーとして活躍した。67試合で48ホールドポイントをマークし、2年続けて最優秀中継ぎのタイトルを獲得した。首位ソフトバンクには無失点、3位日本ハムには自責点0と上位を争う対戦でも結果を残した。 は開幕から打ち込まれる場面が目立ち、4月15日には腰痛で登録抹消される。5月2日に再登録されるも、6月15日に「椎間板性腰痛」のため再び登録抹消となる。6月27日に再度登録されるが、8月11日のソフトバンク戦でサヨナラ3ランホームランを含む5失点を喫するなど、年間を通して投球が振るわず、投手成績が前年より悪化してしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤達也 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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